心理描写がわれわれに心理をイメージさせるとは限らない。心理は一つの確固たる実体ではないだろう。心理家である三島以上に、心理に背を向けた作家のほうが、逆に、心理そのものを示している。
 古井由吉はそうした作家の典型として論じられることが多いが、彼の『杳子』には次のような記述がある。
 男は杳子から遠ざかるのでもなく、杳子に近づくでもなく、大小さまざまな岩のひしめく河原におかしな弧を描いて、ときどき目の隅でちらりちらりと彼女を見やりながら歩いていく。細長い躯の背を獣みたいにもっさりまるめて、まるで薄い氷の上をそろそろと渡るみたいに、幼い目もとに不安を殺ぎ出しにしている。ところが男が歩いていくにつれて、灰色のひろがりが、男を中心にして、なんとなく人間くさい風景へ集まっていく。そのさまを杳子はいかにも珍しいものを目にする気持ちで見まもった。
 杳子の眼からとらえられた男との距離感というものが、読むものに、生々しい実在感を持った心理として迫ってくる。『杳子』に限らず、古井由吉の初期の作品では一切の心理や内面は払拭され、自己の狂気さえも踏みこめないものとして自分の外部から眺めるように描かれている。ただし、後に彼はこの手法を芸にしてしまい、新鮮味がまったくなくなってしまった。心理は、古井由吉にとって、自己の内面ではなく他者との距離感を意味している。古井由吉はここでまったく心理を描写してはいないが、彼の示しているものは心理そのものにほかならない。
 このように、心理的描写が心理を直接的に表わすのではないのだ。スタンダールは心理的描写を描いたが、彼にとって重要だったのは人間の心理を明らかにすることではなかった。出来事がいかに人間を規定し、発展させるのかというダイナミズムを書くことが彼の目的であり、三島のゆったりとした文体と比べて、ほんの数行で殺人や誘惑などに対処してしまう彼のスピード感あふれる文体はそのことを如実に表わしている。ニーチェを含めたわれわれがスタンダールを好むのは、彼が「運命的で活気にあふれた動きの中で、現実を愛し、観察しよう」(ブラガーリア『フォト・ディナミズモ』)と勧めているからなのだ。心理記述は、経験世界の持つスピード感を表現しようとするスタンダールにとって、まどろっこしく、あまりに鈍重である。現実は心理を待ってはくれない。つまり、スタンダールの心理的描写は「われわれを外側から熱中させる物語を語る任を帯びた」(アルベレス)解釈だったのである。
 それゆえ、三島の心理的手法が明らかにした心理分析は、自己意識の欺瞞的・逆説的なありさまだけであって、それ以上示唆を与えてはくれないのである。三島の提示する心理的解釈はどれもこれも透明なのである。三島は太陽が眩しいくらいの昼に澄んだ海の底を見ていたかもしれないが、その海の夜の姿を見ようとはしなかったのだ。三島が見ていたのは海の中や底であって、海そのものではなかった。三島の愛したギリシアの海は美の対象ではなく、海路であるが、泳げない彼にはそれを理解しようとはしなかったのである。三島は透明なもののみを透明なものとしてみただけで、不透明なものは見ようとしなかった。つまり、経験から決定的に逃げてしまった三島の想像力は現実を見まいとする形で作用し、行為者と行為との関係と言うよりは断層において発揮されるのである。
 そこには当然苦しい無理があるが、三島はその無理を承知した上で心理的手法を続けたことは、小林秀雄との対談『美のかたち』において、金閣寺消失の犯人の動機について次のように告げていることからも明らかである。
小林 三島君のは動機小説だからね、だから、あれはむつかしかったでしょう。ラスコリニコフには、殆んど、動機らしい動機は書かれていない。やっちゃってからの小説だからね。君のは、やるまでの小説だ。
三島 本来は動機なんかないんでしょうね、ああいうことやるやつ。
小林 ないでしょうね、……で、まあ、ぼくが読んで感じたことは、あれは小説っていうよりむしろ抒情詩だな。つまり、小説にしようと思うと、焼いてからのことを書かなきゃ、小説になんない。
 「本来は動機なんかないんでしょうね」と言うとき、三島は自分の心理的手法が虚構であることを自覚していたことを認めている。つまり、三島にとって、それはアイロニーなのである。マジックは、ザ・ナポレオンズによれば、「コミュニケーション・ツール」であって、「切り札」ではなく、「洋服でいえばアクセサリーの一部」なのであるけれども、他者に対しても、自己に対してもコミュニケーションを嫌悪する三島には、虚構を虚構として読者に楽しませるこのような姿勢は、毛頭ない。三島は彼の心理分析を直接的な経験に届かせるつもりはなく、むしろ現実に背を向けた。三島にとって、心理的手法は、多くの文学者にとって自己認識とはならないように、むしろ自己防衛の手段なのである、
 心理的手法が自己防衛の手段であることは、『仮面の告白』における敗戦の日の次のような回想が示している。
 私はその写しを自分の手にうけとって、目を走らせる暇もなく事実を了解した。それは敗戦という事実ではなかった。私にとって、ただ私にとって、恐ろしい日々がはじまるという事実だった。その名をきくだけで私を身ぶるいさせる、しかもそれが決して訪れないという風に私自身をだましつづけてきた、あの人間の「日常生活」が、もはや否応なしに私の上にも明日からはじまるという事実だった。
敗戦が三島に強いたものは戦前イデオロギーの崩壊でもなければ、日本はどうなっていくのかといった不安でもなければ、死ななかったという思いでもなかった。それは「日常生活」である。世界の変化が敗戦によって「日常生活」を嫌悪していた三島に迫ってきた。三島は戦争の与える死から避けたが、それまでは「日常生活」からの逃避を死としていたけれども、死が日常生活と合一し、現実的に死が迫ってきたから、三島は逃げたのである。彼は「抽象化された生活」(中村光夫)は扱ったが、生活そのものを描いたことはなかった。三島と違って、大リーガーに圧倒され、あんな凄い連中の国と戦争をやっても勝てるわけがない、どうせみんな死んでしまうんだから、はやめに死んだほうがいいと特攻隊に志願していた青田昇は、敗戦の知らせを聞くと、「日常生活」の復活に「これでまた野球ができる」とこころ踊らせ、一週間もしないうちに、飛行機を飛ばして帰国し、職業野球球団のオーナーに「はやく再開しろ!」とつめよっている。生活を支えるものは思想でも、感情でも、意味でもなく、ただ「必要」(坂口安吾)から強いられたものである。従って、三島は日常生活から逃げるために、死の代わりに、芸術を選ぶことになったのだ。
 
Now the mask you're wearing
Is stoney and staring
Lines and tears
Age and fears
Growing old
Passions cold
Is it me
Is it you
Behind the mask, I ask
Is it me
Is it you
Who wears another face.
There's nothing in your eyes
That marks where you cried
All is blank
All is blind
Dead inside
The inner mind
Is it me
Is it you
Behind the mask, I ask
Is it me
Is it you
Who wears another face.
(Yellow Magic Orchestra "Behind The Mask")
 三島は、『重症者の兇器』において、自分における芸術と生活の位置を次のように述べている。
 「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用いられた「手」を記念するために与えた最も素朴な観念である。しかしこの言葉がタブウになると、それは「生」とか「生活」とか「社会」とか「思想」とかいうさまざまな言替の言葉で代置された。これらの言葉で人は裸になりえたか。なりえない。何故なら彼等はこれらの言葉が、この場合、代置としてのみ意味を持たしめられていることに気附いていないのだから。それに気附きつつそれに依った真の選ばれた個性は、日本ではわずかに二三を数えるのみである。
 私はそのような選ばれた人々のみが歩みうる道に自分がふさわしいとする自信を持たない。だから傷つかない魂と強靭な皮膚の力を借りて、「芸術」というこの素朴な観念を信じ、それをいわゆる「生活」よりも一段高所に置く。だからまた、芸術とは私にとって私の自我の他者である。私は人の噂をするように芸術の名を呼ぶ。それというのも、人が自分を語ろうとして嘘の泥沼に踏込んでいゆき、人の噂や悪口をいうはずみに却って赤裸々な自己を露呈することのあるあの精神の逆作用を逆用して、自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。(略)−−端的に言えば、私はこう考える。(きわめて素朴に考えたい。)生活よりも高次なものとして考えられた文学のみが、生活の真の意味を明らかにしてくれるのだ、と。
 こうして文学も芸術も私にとっては一つの比喩であり、またアレゴリイなのであった。そこまで言ってしまっては身も蓋もなくなるようなものだが、それを言わせる時代の方が悪いのである。
 「芸術」を信じているからではなく、「生活」を貶めたいがゆえに、「芸術」を「生活」よりも高度に置く。これは自意識の転倒にほかならない。三島はいかなる出来事に遭遇しても決して傷つかないための安全装置を発見した。それが「芸術」なのである。それゆえ、三島の作家としての出発は、「日常生活」、すなわち外界の登場である。三島を作家にしたのは「日常生活」からの恐怖であると断言できる。後年の三島は男性的で行動的であるかに見えるが、虚弱で詩に耽溺している時期の彼とまったく変わらず、どちらも自閉的であるのだ。「日常生活」は人を他者と相対的な場所へとひきずりだすが、ところが、三島はそうした場を拒否しているのである。例えば、『仮面の告白』において、主人公に対して他の登場人物はつねに従属的な関係にあるが、特に、三島の家族に対する扱いは幾分バランスを欠いている。女の家族に比べて、男の家族に関する言及が、『仮面の告白』の場合に限らず自分の家族について述べる際、極端に少ないのである。あれほど男色をめぐって多くの男たちのことを丹念に書きとめているのに、一番身近にいる家族の男からは避けている。一九四二年に亡くなるまで祖父は三島の身辺にいるにもかかわらず、『仮面の告白』には祖父に関する記述は侮蔑的なものしかないし、父については、転勤していることもあるのかもしれないが、修辞性のない事務的な記述しかされていないのである。また、三島には弟がいたというのに、妹についてはいくつか重要な記述があるのだが、一切作品でそのことにまったくと言っていいほど言及してはいない。祖父にしろ、父にしろ、弟にしろ、彼らは働き、経済的に家族を−−逆に困窮させてしまったこともあるが−−支えてきたものたちである。祖母の世俗的なものに対する軽蔑が三島に影響し、その彼らを三島も、表面的には、一様に蔑視している。だが、三島は、実は、周囲のものたちを軽蔑しているのではなく、恐れているのだ。と言うのも、三島は、『仮面の告白』において、「大人になることの不安」を感じるたびに、居心地の悪さを覚えていたと告げているからである。彼の男色はあわれなまでに図式的な動機から発生している。三島は「生活」から自分を守るために、「芸術」を選びとった。つまり、彼は「芸術」を積極的な理由からではなく、「生活」から逃げるために、消去法的に選択したのである。
 従って、「生活」が無形且つ偶然的である以上、「芸術」は形式的な構成がしっかりしていなければならない。
 三島は、『空白の役割』において、形式への固執を次のように述べている。
 青年でありながら、私にはいつも憎新癖があった。調和をそこなうものに対する憎悪があった。芸術作品というものは、いかに破壊的な主題を蔵していても、作品それ自体には調和が行き瓦っていなければならないという考えは、私にとっては生得のもので、私自身の内部に人一倍得にくいことから、この考えは私の中でますます鞏固になった。
 青年は、パンク・ムーブメントが告げているように、形式を破壊することを好むが、「憎新癖」のある三島は形式に対しては保守的である。三島は、形式を大切にするのが先行するのではなく、周囲の青年に対する軽蔑と反感から「憎新癖」を覚えた。年をとっても、形式にこだわり続ければ、よくいるたんなる年老いた保守主義者にすぎず、それから離れていくほうがアイロニカルであろう。三島は、死ぬ間際まで、すなわち最後の先品、『豊饒の海』に至るまで形式的構成に対して偏執狂的なまでにこだわっていた。だが、結局は、この形式は、三島にとって、両刃の剣だったのである。
 福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』において、芸術における形式と自己との関係を次のように述べている。
 無限の自由を信じる浪漫派は、梯子が自分を自分のあるべき高みにまで持ち上げてくれぬのに不満を感じる。それが浪漫派の憂欝というやつだ。これは、いいかえれば、自分の用いた梯子より、もっと高いところに、自分はいるという矜恃でもある。この皮肉を、かれらはロマンティック・アイロニーという言葉によって美化した。浪漫派にとっては、芸術作品も、自己の優越性と無限の自由を保証するための、しかし、ぐあいの悪いことに、ひどく脚の短い不完全な梯子にほかならなかったのだ。かれらは芸術を信じてはいない。いや、信じることができない。形式がつねにかれらを裏切るからだ。自己を最高のものとして信じた以上、それは当然の帰結である。芸術の形式すら、かれらにとっては、自己の創造であり、自己の所産でなければならぬはずだ。
 三島にとって、「芸術」は「日常生活」からの逃避のために選ばれたものであるから、「芸術」以上に「自己の優越性と無限の自由」こそが重要だった。しかしながら、「芸術」は形式的構成によって自己を規制する。形式を重視するかぎり、芸術はすべてを「自己の創造であり、自己の所産」であるとする自意識による転倒を許さないのである。つまり、芸術において、形式的構成によっては三島が望むような自己認識は達成されないのだ。そうして「芸術」は、形式によって、三島を追いつめていくことになるのである。三島に限定されず、「芸術」を「日常生活」より高い位置にあると見なす作家−−芥川や太宰−−は形式を重視し、そして彼らは自殺に向かっているのだ。
 『豊饒の海』を書いたとき、作品の中ではもはや自己認識にはいたらないことをはっきりと知ったのである。『豊饒の海』の最後の第四部『天人五衰』がそれをいみじくも示している。『豊饒の海』四部作において自己確認は輪廻転生という形をとっているが、最後の『天人五衰』において自己確認は達成されない。『春の雪』の松枝清顕、『奔馬』の飯沼勲、『暁の寺』のジン・ジャンという三人の主人公は経験的にはまったく異なっているにもかかわらず、本多繁邦によってそれぞれが実は生まれ変わりだという同一性が見出だされる。しかし、『天人五衰』の安永稜だけはにせものであり、自殺をするが未遂に終ってしまい、輪廻転生は完成せず、『豊饒の海』はむしろ「不毛の海」に終わる。つまり、輪廻転生という形式的構成の中では自己確認にはもはや不可能なのである。三島は『豊饒の海』を書き上げたその直後に例の行動に走った。福田恒存は一九五〇年に三島を「豊饒なる不毛」と呼んだが、三島は一九五〇年から一九七〇年の二十年もの間変わらなかったのである。一九六〇年から確かに三島の作品は主題的には右傾化していても、作品の形式的な構成などは変化がみられない。それゆえ、三島の転回は一九六〇年ではなく、正確には、一九六八年である。この年三島は「楯の会」を結成し、『文化防衛論』を発表している。一九六八年は、アメリカではキング牧師が暗殺され、日本国内では、左翼運動が激化し、タレント政治家を生むワイドショーが始まった年である。そして、一九七三年のオイル・ショックによって崩壊するまで続いた「昭和元禄」が始まった年でもある。「昭和元禄」をめぐる記述から始まる『文化防衛論』に関しては当時からすでに論議されてきたが、この批評は三島の作品には珍しくアイロニーを欠き、重苦しさに満ちている。『文化防衛論』はいささか強引で性急な理論化がみられ、論が進めば進むほど、破綻している。ここでは原理的統一性を希求するあまり、対象としているものの存在感が稀薄になり、論理が空転しているのである。展開されている図式的な理論は矛盾してさえいる。前年の一九六七年に発表された『葉隠入門』には形式的な構成の破綻は見られず、三島の批評の中でも最も優れたものの一つであり、明らかに『葉隠入門』と『文化防衛論』の間には断絶がある。従って、『文化防衛論』は三島の作品の中で最初に形式的な構成破綻を示し始めた作品である。作家としての三島を支えていたのはアイロニーと形式的な構成力であった。それが『文化防衛論』において初めて稀薄化し、『豊饒の海』において決定的に破綻してしまったのである。つまり、「昭和元禄」が三島の形式的構成力を狂わせたのである。
 形式に関する認識に不協和音が生じ始めた『文化防衛論』は、彼を考察する際に、重要な作品である。それは日本文化を論じ、一般にも、感染力を持った作品の一つであるが、彼が防衛しようとしていたのは文化と言うよりは、厳密には、形式なのだ。三島によれば、形式が維持されている状態は健康であり、その破綻は病気なのである。三島に限らず、文化の健康さを論じるものたちの多くは、それらは日本を擁護するというナショナリズムであるが、その基盤は西洋医学の病原体論にほかならない。いい加減に頭を冷やせとわれわれに怒鳴られても仕方のないほど、いまだに評価する愚行の絶えない恥知らずなまでの差別主義者志賀直哉は、『流行感冒』や『濁った頭』、『大津順吉』などを読めばわかるように、病原体論が差別の根拠としているのだから。
 『文化防衛論』に言及する前に、文化論において健康や病気がいかに機能しているかを論じておこう。薬害エイズが発覚する以前のエイズ、すなわちHIVに関する言説は実際のエイズ以上の感染力を持っていた。エイズに関する歪んだ認識はほとんど指定伝染病のそれである。これはかなり不可思議な現象であると言っていいだろう。エイズに関する学会などによる正式な認識に対して、どうしてかくある形に歪みが生じたのかということは、興味深いことである。医療関係者にすら差別があるように、この事態はジャーナリズムによるものと理解するだけでは不十分であろう。エイズ患者に対する差別は無知や偏見に基づくものだけでは必ずしもない。まだ完全な治療法が確立されていないという事実と同じ程度に、医療行為・性交渉・母子感染・注射器の回しうち以外では感染することはまず稀であるといった明らかにかなり正確な知識を持っていながらも、気分によって、差別しているものも決して少ないとは言えないのである。エイズに関する差別的言説は五感をめぐっている。あくまでも外部からウィルス感染するのだが、それはすでにあったさまざまな差別−−薬物中毒患者に対する差別、同性愛に対する差別、病人に対する差別など−−の諸関係のシンボルなのである。医学会において認められた見解・曲解が伝わらないのは、ジャーナリズムを含めたわれわれの認識そのものがこの病気に対して免疫不全を起こしているからなのだ。「免疫とは何か、を定義するとすれば、『生体内に、自らにとって異質な物質が現れた場合に、自らの本来の姿、インテグリティ(完全性、恆常性)を保とうとする、生体にそなわった本質的な機能』ということになろう。つまり『自己』(self)と『非自己』(not-self)を識別し、『非自己』を排し『自己』を保とうとする機能なのだ」(小林登『〈私〉のトポグラフィー』)。エイズは免疫不全になることから抵抗力が落ち、他の感染症によって死に至ることはあっても、エイズ・ウィルスそれ自体が青酸カリのような毒性の薬物のごとくに機能するわけではない。エイズに関する差別は批評精神の免疫の無効の表われである。自己免疫疾患にはエイズに限らず、甲状腺関連の免疫疾患に関しては解明が進んでいるものの、全身性ループスなど他にも深刻な病がある。エイズ患者に対する差別こそが医学的に公認されたエイズ的であると言うことができるのだ。
 エイズに関する言説の蔓延している理由を性道徳の変化によって説明することは意義深いものではない。このことは梅毒と比較すると明瞭になる。梅毒が性病であるという認識は、ジャーナリズムも医学も発達していなかったにもかかわらず、はやくから定着した。もともとアメリカの先住民族の風土病であった梅毒は西欧を経て、日本にまで広がっている。しかし、江戸時代の文学において、遊郭が中心的舞台の一つとなっているにもかかわらず、深刻な被害をもたらしていた梅毒はほとんど登場してこない。この当時、日本の医学は東洋医学であり、それは梅毒に対して有効な治療法は編み出せなかった。梅毒は死をもたらす病であったけれども、梅毒という病は文学的な関心になり得なかった。それはある思考形式がないという理由もある。だが、それとともに、梅毒はあくまでも性病であり、また、政治体制の変化などもまったくない鎖国の時代では、感染経路その他も明瞭であるため、意味を産出する能力は極めて限定されていることもその理由の一つとしてあげておくべきであろう。一方、驚異的なスピードでのエイズの世界的拡散、そして対応の遅れは東西冷戦と南北問題がもたらしたものである。薬害エイズと呼ばれる日本でのエイズの被害拡大は一向に改善されない官僚と御用学者、製薬会社の無責任体質が原因なのだ。エイズは、その共同体の持っている慢性化した問題点が病気の拡大化・深刻化を招くのである。ところが、その原因が判明するまでの時期には、象徴的な病はそうなる傾向にあるが、無責任な連中に安易な比喩として用いられたのだ。われわれは病を比喩化することは、誰もがかかってしまう可能性はあるのだから、やめたほうがいい。病気は静的ではなく、時代や環境によって、変容していく。六十年代にアフリカで発見されたエイズ・ウィルスと八十年代のアングロ・アメリカのそれとでは異なっている。流行病と医学理論は、後に述べるように、政治的なものも含む社会的・歴史的変化と非常に密接な関係がある。従って、梅毒に関する言説は実際の梅毒以上の感染力を持ちえていなかったのである。
 病気の流行は、その体制の矛盾によって、生じる。病気の発生自体は体制とは無関係に起こりうる。けれども、流行は体制が隠蔽していたい矛盾が可能にする。病気は、その意味で、政治的である。病気を比喩として考える際、その言葉の用法以上に、流行のプロセスに着目した方がよい。現代において病気の流行を最も拡大するのは正確な情報の隠蔽や欠落である。
 病に関する差別的な言説の感染力は宗教の持つ感染力に負っていることは少なくない。梅毒は、西欧においては、エイズがホモセクシュアリティーやドラッグ・カルチャーを抑制する機能を果たしたように、性的なピューリタニズムをもたらした。病になるのは宗教的・道徳的に堕落したからというわけだ。子宮ガンの一種は性交渉によってウイルス感染する。運動神経マヒの病ギラン=バレ症候群にかかったことのあるジョン・ヘラーなら、「笑いごとじゃない」と自分の体験を言うところだが、スーザン・ソンダークは、癌患者だった体験に基づいた古典的著作『陰喩としての病い』において、「私の言いたいのは、病気とは陰喩などではなく、従って病気に対処するには−−最も健康に病気になるには−−陰喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法であるということだ」、と陰喩として病がいかに機能してきたかを文化的な記号論によって論じている。「陰喩としての病い」は、すなわち「陰喩がらみの病気観」は、特に、宗教的な意味を帯びて、用いられてきた。西欧において、もともと医学は神学的イデオロギーに基づいていた。実際、十七世紀のイギリスの代表的な思想家であるジョン・ロックは、オックスフォード大学時代、哲学と医学を研究していたにもかかわらず、宗教的理由から医師免許取得の申請を却下されているが、彼は友人たちから「ドクター・ロック」という愛称で呼ばれていた。そして、病気は神学的・文学的な意味、すなわち病気は悪であり、罪だという考えとして働き、その病が治癒可能になっても、しばらくは、思考形式として生き延びている。例えば、癌という比喩は、かなり治癒可能になった今日でもよく用いられている。ただし、エイズと同性愛の問題などに際して、病をユダヤ=キリスト教との関連において理解されている要素があることも否定できないが、それに限定すべきではなく、病は、多くの共同体において、宗教的な意味によって解釈されてきた。つまり、病は共同体や宗教の発生や存立の根源にかかわっており、病はそうした痕跡であるがゆえに、そのようなイデオロギーによって読まれざるを得ないのである。
 このあたりで、われわれは、自らの医学・病気と文化論の知的源泉に敬意を表しよう。柄谷行人は、『日本近代文学の起源』のほかいくつかのエッセーでも、こういう視点を展開しており、われわれもそれに負うところが大きい。だから、そんなことはすでに柄谷が言っていることだ、彼と同じ箇所を引用しているといったあたり前の指摘をしないようにしてもらいたい。われわれは柄谷と同じ箇所を引用するのが好きなのである。まだまだそれは続く。柄谷の作品は、彼より若い多くの日本の文学者にとって、通信社の役割を果たしていたし、われわれにとって、読書が柄谷の作品を読むことを意味していた時期があった。なのに、われわれには、自分の作品が柄谷以上に柄谷的になっていないことが不満でたまらない。
 医師は文学者・思想家たちが病を安易な陰喩として用いることを肯定しないだろう。しかし、人は、医者の分類によって、安心したり、不安になったりし、また病気になったことを運命的に苦悩する。なかなかわれわれに医師は緑内障と宣告しなかった。身体的な病においても、精神的な病においても、同様である。エイズであるか否か、自閉症であるか否かは医者が判断することであり、その結果は著しい反応を患者や近親者に喚起させるであろう。それは、むしろ、文学的・哲学的であるどころか、宗教的ですらある。医学的知識と資格のない患者にはこの権威的決定に抵抗する権利を、改善されつつあるとはいえ、所有してはいない。医学は、その意味で、比類なき「知の権力」である。患者は、病の比喩に苦言を呈する前に、インフォームド・コンセントをなんとかしろと医師に言いたくなるだろう。こうした非公開性は病を神話化させる。癌の比喩が発病と治療法に由来しているように、医学はそれで自立しているものでなく、さまざまな諸学や思惟との関係において存立しているのだ。エイズは癌のようには、日常言語において、比喩化されていない。医学的な発病や治療法などが発見されないかぎりは、その病は文学的・哲学的にも、厳密な意味では、機能しないのである。ソンダークの批判は陰喩と病気そのものの区別を前提にしているわけだが、それはカント的な現象と物自体のヴァリエーションにすぎない。イメージ批判は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』にしても、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』にしても、大なり小なり、本人がどんなに否定しようとも、カントの方法論に隣接せざるを得ない。カントの区別はニュートン物理学による近代科学的配置によって存在したように、彼女の陰喩と病気そのものの区別も近代医学的配置によって可能たらしめられたのであり、陰喩を離れた病気などありえないのである。
 その文学によって再構成された最大の例の一つは結核である。結核はロマン主義文学が神話化した。そのロマン主義文学の結核に関する言説は、実際の結核以上の感染力を持っていたのである。結核患者の減少ともに、ロマン主義文学の中で結核が描かれることはなくなっていった。結核患者は、日本では、現在でも少数ながらある一定数いるのだが、診察できる医者の絶対数が足りないし、またその医師の高齢化が進んでいるため、困難な問題に直面している。けれども、結核は忘れられた病となりつつある。イメージを持つ病ではなくなった結核を文学作品に描いたとしても、神話化されることはないだろう。もっとも一九五〇年代に『PLAYBOY』に見出された漫画家シェル・シルバースタインが、その後、『ザ・ギヴィング・ツリー』など児童書のベストセラー作家になったように、物事はどうなるかわからない。
 遺伝病と思われていた結核は、一八八二年コッホによって結核菌が発見されたことによって、遺伝病などではなく、結核菌が感染する病だということになった。一九二一年のBCGワクチンが完成したことから、その予防が可能になり、さらに、ワクスマンの発見したストレプトマイシンなどの抗生物質が相次いで登場したため、死亡率が著しく低下した。しかし、このような経緯はすんなりと進んだわけではなかった。コッホの発表した説は当時の医学理論にはまだまだ完全にはそぐわないものだった。一八八〇年、乳酸菌を発見したり、殺菌法を考案したパストゥールは狂犬病予防接種を発表した。それは病原体論に基づくものだった。狂犬病は現在でも難しい病気の一つである。
 結核菌の感染を受けても、症状が出るなど発病しないかぎりはあくまでも潜伏しているにすぎず、発病することによって初めて病気になる。感染者と発病者はまったく異なっている。それはイギリスのエドワード・ジェンナーが一七九六年に種痘法によって説明した。この種痘を発見したのは彼ではない。紀元前から中国やインドではすでに普及していたし、それに影響を受けた中東にも知られている。一八世紀初頭、「レディ・メアリー」ことメアリー・ウォートリー・モンタギュー(Lady Mary Wortley Montagu)はアレキサンダー・ポープが詩を捧げたほどの美貌の持ち主だったが、天然痘により、一命はとりとめたものの、その跡が残ってしまい、この恐ろしい病気の治療法に関心を持っている。一七一一年、夫がオスマン・トルコの英国大使として赴任するのについていった先のトルコにおいて、ワクチンによる治療に触れ、その方法を書簡で友人たちに本国に伝え、さらに、天然痘が流行した一七二〇年代に帰国し、この予防接種を普及させようと奔走している。残念ながら、人間の天然痘ウィルスを使っていたため、安全面に不安があり、あまり浸透していない。少年時代に天然痘の予防接種を経験し、それを安全化したジェンナーに比べて、先駆者である彼女はあまりに不当に扱われている。ウイルスに対する人類の史上唯一の勝利だった。ジェンナーの理論の核心は免疫の力を利用するということで、軽く感染させて、免疫をつくり、発病させないという点にある。これは、ある意味では、むしろ、ヒポクラテス(前四六〇頃─前三七五頃)の医学理論の発展である。しかし、パストゥールの病原体説はヒポクラテスとの対決であった。
 「医学の父」と呼ばれているヒポクラテスの医学理論は、『ヒポクラテス事典』によると、病気は特定の、もしくは局部的な原因によって起こるものではなく、心身の働きをコントロールしているさまざまな内部の因子において保たれている平衡状態が崩れた現象だという発想に基づいている。病気を治すのは医者ではなく、患者にそなわっている自然の治癒力なのである。ヒポクラテスの医学は、われわれに馴染み深い現在の西洋医学よりも、東洋医学に極めて類似している。漢方薬が日本では、あたかも万能薬か秘薬であるかのように、珍重されているが、古代ギリシアやエジプト、インドなどでは今日料理に使われている香辛料が漢方薬と同じ効用として用いられていた。それどころか、イスラム圏の伝統治療である薬草療法で用いる植物の種類は漢方薬を超える。例えば、最も嫌われている医療機関である歯科医院でよく鼻をつく匂いは古代ギリシアの時代から現在まで歯の治療に使用されているクローブのものである。それゆえ、西洋医学の限界につきあたったとしても、そのことを東洋医学によって超えることはできない。そもそも固有の文化なるものは存在しないのであり、ある共同体の文化は、他の共同体との人や事物の交流によって、形成されてきたものである。医学や健康に関することもそのようにして形成されてきた。西洋はあくまでも東洋との関係において、また東洋は西洋との関係において、成立してきたということを忘れてはならないだろう。
 ゾロアスターに似たエンペドクレス哲学が反映しているヒポクラテスの医学は、『古い医術について』によれば、「経験」に基づいていた。それは「経験」から「観察」し、「経験」によって実証するものであった。彼の医学をそれ以前の医術とわかつのはまさにこの点である。ただしヒポクラテスは外科手術を是認することはなく、彼の治療法の中心は時間をかけてゆっくり療養することであった。彼の医学は暇を愛したポリスの上流階級のためのものである。伝染病は、この当時においても、あった。それは休養する暇のない労働者階級の間から蔓延した。伝染病に感染した患者は、必ずしも有効な治療法はなく、彼の残した記録を読むと、一ヵ月ほどで亡くなっている。ヒポクラテスだけが、古代ギリシアにおいて、医者だったわけではない。一人のものが、この時代では、いくつかの職業を兼ねていることは珍しいことではなかった。例えば、ピタゴラス派は医術に極めて精通していた。ただ、ヒポクラテスにしても、ピタゴラスにしても、この時代の医術は、ポリス社会であったために、公衆衛生的なものにとどまっていたのだ。そして、古代ギリシアの流行病の蔓延はポリスという政治体制そのものにかかわっていたのである。
 その後、紀元前三世紀頃小アジアのアレキサンドリア出身のヘロフィロスはアレキサンドリアの医学校に学び、死体解剖を通じて、神経系統・脈搏などを重視し、「臨床医学の祖」と呼ばれている。ヒポクラテスからヘロフィロスへと医学が変化したのには、歴史的必然性があった。ヒポクラテスの医学はポリスに基づいていたが、ヘロフィロスの時代には、アレキサンダーのヘレニズムであって、ポリスは内部の混乱と外部からの攻勢によって崩壊していたのである。つまり、人や物の流入があるとはいえ、ポリス内部だけの世界はヒポクラテスの内科治療を受容し、内部と外部の壁の倒壊した世界は臨床医学を受け入れたのだ。
 このように医学の変化は、歴史的に見て、政治体制の激変がつきものなのだ。医学はつねに政治的であった。その中で最も政治的であったのは精神医学である。西欧医学はヒポクラテス=ヘロフィロス以降、他の科学と同様の運命をたどる。西欧医学はイブン・シーナ(九八〇─一〇三八)が著わした(ギリシア=アラビア医学の集大成である)『医学典範』によって代表されるアラビア医学の影響を、十二〜十六世紀の間、受けている。枝葉は増えたものの、医学は依然としてヒポクラテスの延長線上にあった。ヒポクラテスからのパストゥールによる根本的改変は中央集権的近代国家という政治体制の出現が可能にしたのだ。ミシェル・フーコーは、『臨床医学の誕生』において、フランスの場合を例にとって次のように説明している。トイレがほとんどなく排泄物を路上に捨てていた十八世紀の流行病の状況とその研究のために、医学が国家的な規模による中央集権化され、一七七六年王立医学協会が設立された。「医師の最初のつとめは政治的なものである」。王政は崩壊そして近代国家へと向かいつつあった。このような医学界の中央集権化がパストゥールやコッホによって主張されていた病原体説、すなわち病気の特異的原因論の育つ土壌をもたらしたのである。そして、医学の中央集権化は政治体制の激変と資本主義の発達という歴史的・社会的状況によって可能になったのだ。パストゥールなどによって主張された病原体理論はこのような政治的な動向があって、初めて、認知されたのであり、ポリス制を採用し、主体=客体の分裂のない古代ギリシアにおいては生まれるはずもないし、受け入れられるはずもなかった。
 根本的には、抵抗力と自己治癒力によって病は治る。パストゥールには混乱があった。腐敗させるのは病原菌、すなわちウィルスではなく、微生物である。人間だけでなくすべての動物は微生物を体内に住まわせている。微生物がいなければ、動物は生きることはできない。微生物は人間の生活にはなくてはならないものである。イースト菌はパンを、納豆菌は納豆を、ヨーグルト菌はヨーグルトをつくりだす。腸内には百兆個もの「腸内細菌」が住んでいるため、人間は食物繊維をとらなければならない。「人の消化酵素によって分解されない食物中の成分」である食物繊維は、『四訂日本食品標準成分表のフォローアップに関する調査報告W』によると、水溶性と不溶性の二つにわけられる。前者にはペクチン質やアルギン酸、コンニャクマンナン、コラーゲンなどがあり、後者には不溶性ペクチン質やセルロース、ヘミセルロース、リグニンなどがある。水溶性食物繊維は繊維ではなく、実は、多糖類、すなわち加水分解により、一分子から多数の単糖類が生じる糖類であって、次の二つの役割を持っている。水分にとけ膨脹するとともに粘性を増し、食物の胃内の滞在時間を長くして、小腸での栄養分吸収を穏やかにする。このため、特に、血糖が急に上昇するのを抑え、糖尿病に好影響を与え、またコレステロールの吸収を阻害して動脈硬化や胆石症などの発症を予防したり、毒性物質を吸着してその吸収を抑制し、対外に排出する効果がある、さらに、腸内細菌の栄養になったり、その菌体を含む便の量を増加させる。動物の中には、子供が親の排泄物を食べて、消化器官にこれらの細菌をとりこまないと、食物を消化できるようにならないものも少なくない。イギリスのバーキットは、食物繊維の摂取が十分ならば、水溶性の食物繊維が分解されて発生するメタン・ガスが多量に含まれているため、便は、しばらくの間、水に浮くと報告している。谷崎ならば、女性の排泄物の匂いを嗅ぎつつ、こんなことはすでに知っていたと語ることだろう。不溶性食物繊維は水分を吸収して大便のかさを増すことにより、腸壁を刺激して、腸の運動を促進し、便の大腸通過の時間を短縮すると同時に、発ガン性物質や毒性物質の吸収を妨げ、対外に排出する働きがある。ちなみに、一般的な日本の医師の栄養学に関する知識は、極めて、乏しい。
 もちろん、微生物とウィルスには決定的な違いがある。微生物は自立した存在であるが、ウィルスは他の生物の細胞に寄生しなければ生きていけない。この寄生によって病気が発病する。ウィルスは、細菌が百分の一ミリから千分の一ミリなのに対して、さらにその百分の一程度である。細菌は一般的に細胞壁に包まれ、その中にDNAやタンパク質合成の場であるリボソームなどがあり、主に分裂して自己増殖する。一方、ウィルスはDNAなどがタンパク質でできた膜や殻に包まれている。ウィルス自身にはタンパク質をつくる能力がなく、動物や細菌の細胞に寄生しないと増えることができない。抗生物質が細菌感染症に対して成果をあげてきたのは、人間の細胞にはない細胞壁の合成などを妨害するからである。ウィルスに効果的な薬は人間の細胞に影響させてはならないので、現段階では、単純ヘルペスウィルスに効くアシクロビルなどしか開発されていない。ほとんどのウィルス性の感染症は、このように特効薬かないため、ヒポクラテスの勧める通り、ゆっくりと静養することが大切なのだ。ワクチンは三つのタイプにわかれる。生ワクチンは原因となるウィルスや細菌などの病原体の力を弱めたもので、はしかやポリオ、BCGといったワクチンがこれにあたる。不活化ワクチンは病原体を殺して免疫をつくるのに必要な部分を利用したものであり、日本脳炎や百日せきがこれに含まれる。トキソイドは細菌が作る毒素を取り出して、毒性を失わせたもので、破傷風やジフテリアではこの型のワクチンが使われている。感染症の菌はつねに体内にあることが多く、抵抗力の落ちたときに発病する。予防接種が重大な副作用をもたらすことがあるように、人間は、子供のころからの細菌やウィルスとの闘いを通じて、抵抗力を養っていく。病原体説が病気を治癒したわけではないのだ。例えば、パストゥール以前の流行病であるイタリアに上陸し、その後フランスやイギリスに広まったペスト−−最大の被害は一三四六〜五〇にかけて−−が完全に消滅したのは治療法の発見以上に、下水道の完備など生活様式に生活環境が追いついたことによってである。都市改造を試みたものたちはペストの撲滅などまったく意図していなかった。それゆえ、流行病は生活様式の変化に社会の生活環境がついていけない結果なのである。結核の蔓延は産業革命による生活環境の悪化によってなのだ。食中毒の季節になると、排除の論理がいたるところで見られる通り、病原体説が多くの病を怖くないものにしたことは間違いないが、病原体だけが原因となって発病させるのではない。今日の医学界は、病原体説を受け入れているものの、「全体としての患者、さらに患者の環境全体」を−−特に、予防に関しては−−軽視してはいない。つまり、医学は社会的な了解に対して新たな視点を提示することもあるが、医学的認識が、社会的・歴史的変化に比喩的に対応していなければ、社会的に受け入れられないのである。病理学的な比喩はそれによって生まれるのだ。ところが、そのことが忘れられ、結果と原因がすりかえられているのである。
 と同時に、日本文学における病は、ある面で、日本の医者と患者の関係を表象している。日本の医師と患者には、そのコミュニケーション不足による独自の関係形態がある。特に、医者が軍医あがりだったりすると、それはいっそう足りなくなる。患者は、そういう医者から見ると、無知で無力な小さい存在であろう。はかなくあわれな、しかし健気な患者という『雪国』の駒子のような姿が何度となく文学作品には登場してくる。日本文学の病の神話化はこの関係の歪みがその一つにある。権力は情報の非公開状態から生じる。物理的暴力が権力なのではなく、それを隠すことが権力の秘密なのである。医学全般に対する万能主義的依存、あるいは西洋医学への失望から生ずる東洋医学への過剰な期待は、いずれにしろ、十分に情報が専門家から一般へ公開されていない病的な状態が原因である。
 このように医学的認識は、社会的・歴史的変化の比喩化を前提にして、流行病とそれに対する治療法によって形成されてきた。この医学的認識は哲学的・文学的思惟に影響を与えるだけでなく、文化論へと転移・感染する。医学は社会的・歴史的な状況と結びついている以上、この転換は当然であろう。しかし、病の形而上学や病の修辞学といったように、健康よりも病のほうが哲学的・文学的思惟において生産的であるように、文化論においても、病は健康以上に関心が払われている。論者は自らを医者と見なし、文化を患者として、病気を診断・命名する。つまり、文化論は、多くの場合、文化に対する処方箋として提示されるのである。病気の比喩によって、文化を生命体や有機体と見なした上で、文化を論ずることはロマン主義以降に特に顕著になって用いられてきた。そうした文化論は文化そのもののパターンを無媒介的にとらえ、有機的原理を前提にした決定論なのである。
 病原体の物象化も、ときとして、必要である。慢性的な病にかかっていたり、病気がちな子供は、その苦しみや両親に心配をかけてしまうことから、病気を罪と感じてしまう傾向がある。子供が負い目を感じてしまい、精神的ストレスがたまり、病を悪化させるだけでなく、別の病気になってしまうことも少なくないのだ。そういう子供には、病原体を物象化して、病をそのせいにすることにより、精神的負担を軽減し、さらに、免疫も物象化して、それを正義の味方に見たてるように説明すると、免疫力が高まり、抵抗力が増したという事例も報告されている。われわれも、虫歯の黴菌と免疫の活喩の紙芝居を見せられた子供の唾液に含まれる免疫酵素の力が高まったことを、嶌信彦に似た歯科医から聞いたことがある。病原体の物象化はフィクションであるからといっても、それを批判するだけでは不十分な場合もある。物象化批判そのものが物象化になってしまっていては自己矛盾であろう。最も優先されるべきことはいかに生きることを充実させるかであり、それには、真偽の判定以上に、よりよい、より強いフィクションをつくりだすことのほうが大切なのだ。「現実における言葉の使用、それがその言葉の意味なのである」(ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『青色本』)。
 ついでに言うと、われわれは、幼児のころ、牛乳を飲むと、体に発疹した。けれども、牛乳がとてもうまかったので、両親がとめるのも聞かず、何度も飲み、その度に、発疹した。そして、飲み続けているうちに、湿疹が出なくなってしまった。年齢とともにアレルギーが消えていくこともある。もっとも強引さは、幼いころから今に至っても、変わっていない。かゆみも免疫の反応の一種である。痛みは我慢できても、かゆみは耐えられないものだ。二八歳のとき、膝の筋を痛めたことがあるが、それは我慢できた。けれども、翌年かかったジンマシンは耐えられなかった。そのときは、一睡もできなかったのである。眠れないから、抵抗力が落ちて、より悪化するという悪循環に陥る。しかも、かけばかくほど、かゆみの原因は増すのだ。第一、痛みはヒロイズムを刺激するが、かゆみは格好悪い。かゆみに耐えきれず、ボリボリ尻をかいている姿はみっともない。英雄にかゆみはふさわしくない。笑いが神話化されないように、かゆみをともなう病気は、今後も、神話化されないだろう。かゆみを尊いととらえる神話は、おそらく、ないだろう。かゆみは、動きがともなうから、美学的ではない。審美主義的美は静止状態、すなわち絵画や彫刻といった芸術作品と同じでなければならない。かゆみはあまりにも現実的すぎるのだ。
 さて、三島由紀夫であるが、彼は、『文化防衛論』において、日本文化について次のように書いている。
 これに反して、文化における生命の自覚は、生命の法則に従って、生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。自我分析と自我への埋没という孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考えられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このような献身的契機を含まぬ文化の、不毛の自己完結性が、「近代性」と呼ばれたところのものであった。そして自我滅却の栄光の根拠が、守られるものの死んだ光輝にあるのではなくて、活きた根源的力(見返す力)に存しなければならぬ、ということが、文化の生命の連続性のうちに求められるのであれば、われわれの守るべきものはおのずから明らかである。かくて、創造することが守ることだという、主体と客体の合一が目睹されることは自然であろう。文武糧道とはそのような思想である。現状肯定と現状維持ではなくて、守ること自体が革新することであり、同時に、「生み」「成る」ことなのである。
 さて、守るとは行動であるから、一定の訓練による肉体的能力を具えねばならぬ。台湾政府の要人が、多く少林寺憲法の達人であると私はきいたが、日本の近代文化人の肉体鍛練の不足と、病気と薬品のみを通じて肉体に関心を持つ傾向は、日本文学を痩せさせ、その題材と視野を限定した。私は、明治以来のいわゆる純文学に、剣道の場面が一つもあらわれないことを奇異に感じる。いかに多くの蒼ざめた不健全な肉体の登場人物が、あたかも餓鬼草紙のように、近代文学に跋扈していることであろう。肺結核の登場人物は減少したが、依然として、そこは不眠症患者、ノイローゼ患者、不能者、皮下脂肪の沈積したぶざまな肉体、癌患者、胃弱体質、感傷家、半狂人、などの群がり集まった天国なのである。戦うことのできる人間は極めて稀である。病気および肉体的不健康が形而上学的意味を賦付与されたロマンティシズムから世紀末にいたる古い固定観念は、一向癒されていないのみならず、こんな西欧的な観念は、時には時世に媚びて、民俗学的仮装であらわれたりする。このことが行動を不当に蔑視させたり、危険視させたり、あるいは逆に過大評価させたりする弱者の生理的理由にさえなっているのである。
 ロマン主義文学は、三島の言う通り、西洋近代文学の一つとして日本にやってきた。確かに、結核患者を文学的に美しく扱えるようにしたのはロマン主義文学である。日本文学においては、徳富盧花の『不如帰』(一八九八─一九〇〇)がそのはしりだった。それは明治時代最大のベストセラーであり、それに感化されて、結核患者やサナトリウムを描く作品−−堀辰雄など−−があいついで表われた。ロマン主義の持つ転倒力がそれを可能にした。ロマン主義的想像力とロマン主義的修辞学の内部において現われた時間的生成パターンによって、病は美しきデカダンス、すなわち滅びの美学として描かれたのである。ロマン主義文学は病人であることが感受性の高さの証明であるかのような錯覚を蔓延させた。このことは三島の分析を待つまでもなく、すでに多くの批評家・哲学者らによって主張されている。それらに比べると、三島のこの指摘は表層的である。そもそもいかなるものも、それを受けとる用意ができていなければ、影響を与えない。ロマン主義文学を攻撃するだけでは不十分なのである。産業革命による実際の結核の蔓延という社会的状況によって、ロマン主義文学は、初めて、一般に広く読まれるようになったのである。ロマン主義文学の感染の結果、日本人は愛をロマン主義的情動と理解し、日本ほどロマンティックやロマンティシズム、ロマンといった言葉が濫用される国もほかにないだろう。結核のロマン主義による神話化は、社会的・歴史的変化を他の何ものかによってすりかえ、一元化したことが、引き起こしたのである。
 結核の専門医である島尾忠男によると、結核は、感染者のうち、一割ほどしか発病しない。一生発病しないで終わる保菌者もいる。しかし、結核菌は、比較的、単純なために、生命力が強く、発病はしなくとも、体内から一掃することは困難であり、残りの九割は保菌者になることが多い。結核は、たいてい、空気感染によって、移る。肺の中に結核菌が入り、ある程度増えると、白血球が集まってくる。けれども、白血球には結核菌を殺す力がないので、逆に倒されてしまい、その死骸を温床にしてさらに増殖する。この状態に対して、Tリンパ球が命令し、食細胞を導入する。食細胞は非常に強く、結核菌を駆逐できるが、菌の数が多かったり、免疫力が低下するなどして、食細胞の力が弱かったりすると、結核菌に負けたりする。食細胞の死骸が増えると、腐敗し、チーズ状の病巣になる。その部分がたんとして外に出ると、肺に穴が空き、空洞にも菌が住みつく、また、たんが逆流して、肺の別の部分にも病巣が広がる。これが繰り返されるうちに、肺の機能が低下したり、血液を通じて、ほかの臓器にも転移して、死に至ることもある。肋膜に転移していれば別だが、肺自体には痛みを感じる神経がないので、症状は咳やたん程度であり、初期の段階では、熱もあまり出ないために、病状が進行していたり、手遅れになるケースも少なくない。そして、医師も結核を診療したことがないことから、結核と診断できなかったり、治療をうまく行えないことも新たな問題として指摘されている。
 結核の歴史は古い。すでに古代エジプトのミイラに脊椎カリエスの跡が見られる。血液から脊椎に入った結核菌に冒される脊椎カリエスは、結核の中では、数%を占めるにすぎないので、おそらくかなりの人数の肺結核患者がいたと思われる。結核以上に深刻な感染症−−ペスト−−があり、長い間、人々にとって、中心的な病ではなかった。結核患者が爆発的に増えるのは、産業革命である。都市に人が集中し、劣悪な労働環境の中で、多くの人々が感染し、戦争がさらに追いうちをかけた。結核が急激に衰退するのは、抗生物質による本格的な治療が普及してからである。ただ、結核においても、ほかの感染症と同様、多剤耐生の菌も登場している。
 この四〇年間の結核患者減少には医療行政と企業の役割も否定できない。行政には大きく二つの功績がある。第一に、結核患者の診療を結核専門病院だけでなく、開業医にも拡大した点であり、第二には、健康保険以外の自己負担分を治療費を国が補助した点である。その上、企業も、結核患者に対する休業保険を充実させ、社内に結核診療センターを開設するなどの方策を独自に打ちだした。経済的に上り調子だから可能だったのであるが、政官財の癒着も効果があった時代もあったというわけだ。
 一時は国民病とまで呼ばれていたため、結核患者になった文学者も多く、森鴎外や正岡子規、樋口一葉、長塚節、石川啄木、宮沢賢治、梶井基次郎、島木健作、堀辰雄、太宰治、織田作之助、立原道造などがいる。けれども、登場人物が「不眠症患者、ノイローゼ患者、不能者、皮下脂肪の沈積したぶざまな肉体、癌患者、胃弱体質、感傷家、半狂人」であったとしても、そのことでその作品が病的であるとは言えない。その取扱い方によってそれが病的であるか否かは判断することなのである。かりに主題がいかにタブーに挑戦しているとしても、作品形式が古典的であるとすれば、必ずしもその作品は挑戦的であることにはならない。その逆の場合もある。主題の選択が冒険的でなくとも、作品形式が革新的であるならば、その作品は冒険的であることも少なくない。三島の作品は、むしろ、彼が非難する作品群とその形式において同一のものが用いられている。文学ジャンル論的には、三島の作品はロマンスに所属している。つまり、三島の作品は彼が標的にしているとうのものである「ロマンティシズムから世紀末にいたる古い固定観念」に基づいているのである。三島の『文化防衛論』の主張にはこのような短絡性がつきまとっている。三島の批判ではロマン主義的存在パターンはまったくゆるがないだけでなく、今まで以上に、とらわれてしまうのだ。
 さらに、「不眠症患者、ノイローゼ患者、不能者、皮下脂肪の沈積したぶざまな肉体、癌患者、胃弱体質、感傷家、半狂人」を登場人物とする作品は、文学を病ませるものであるから、その世界から追放してしまえという考えや、文化を守るというのは、西洋医学の病原体論に基づいている。西洋から輸入された思想を病原体として批判するこの三島の主張は西欧のものであるスケープゴート理論的である。神話化は差別の裏返しであることも多い。文化を論ずる際によく用いられるスケープゴート理論は記号論的どころか、むしろ、病気が治癒するためには病原体を実体化し、それを外部に排除するという病理学的なイデオロギーなのだ。ギリシアに憧憬していたようだが、三島の『文化防衛論』は反ギリシア的である。それゆえ、病による文化論は医学的認識によって限定されているのであり、医学的理論の問題点がその文化論においても体現されてしまう。三島は結核と癌を一つにまとめて論じている。しかし、癌は結核のもたらした意味を変化させたし、さらには、エイズや院内感染はパストゥールらの理論に対して根本的な改変を求めている。エイズの深刻化によって病の文化論は転回を求められている。それは悪循環だ。そして、エイズは結核を復活させた。結核は撲滅されたわけではなく、アジアでは、毎年かなりの数の死亡者を出しているし、日本も、いわゆる先進国の中では、結核による死亡者が最も多い国である。途上国から先進国への労働人口の流入はエイズや結核といった感染症を世界的に蔓延させる原因の一つであり、南北問題の早期の解決が望まれる。WHOは、一九九三年、結核の非常事態宣言を出している。エイズによって結核は、将来、再び最も死亡原因となる病である。二つの文化論は結びつく。
 結核が、現在、世界最大の成人感染症だとすれば、世界で最もありふれた病気はマラリアである。地球温暖化が進む現状を考慮すると、マラリアの菌を媒介するハマダラカの生息域が拡大すると見られている。ただし、ハマダラカは環境汚染には弱いので、必ずしも、爆発的に地球上に蔓延するとは言えないが。マラリアに対して有効な手立てがまだ見つかっていない。エイズよりも、その意味で、深刻である。マラリア同様、眠り病を引き起こすトリパノソーマを媒介するツェツェバエも、日本ではあまり考慮されていないが、アフリカの貧困に拍車をかけている原因の一つである。眠り病には牛や羊などの家畜もかかる。ツェツェバエは家畜の飼育を制限させ、食糧増産の妨げになっているのだ。地球温暖化はこの蚊の生息域も拡大する恐れがある。暖かい地域の人々はのんびりしていると言われるが、それは免疫力が低下しないための生活の知恵なのだ。さまざまな感染症があるそうした地域で、日本のサラリーマンのような生活をしてしまえば、疲労と栄養不足から、たちどころに、免疫力が落ち、かかったとしても、軽い症状ですむはずのものが、重症になってしまうのだ。「病的」という言葉ほど日本人にふさわしいものはない。これに関連して言えば、ユダヤ教徒やイスラム教徒が豚を食べるのを禁止したのは、感染症対策ではなかったかと思われる。豚はヒトに近いため、ヒトにとっては「増殖宿主」である。インフルエンザを含め、豚を経由した感染症はヒトにとって重大な被害を与えかねない。ただでさえ、感染症が多い地域であれば、豚を避けることは、生活する上で、好ましい状態であっただろう。トンカツは、毎日食べたいくらい、最高なんだけどね。それはそうと、輸入感染症に対する水際での防疫体制は恐ろしく時代遅れな、すなわち三島的な発想である。いかなる感染症も、グローバリゼーションが進みつつある現状では、到来するという前提のもとに、世界的なネットワークを通じて、恒常的な医療機関での感染症の研究ならびに対応を用意していなければならない。エイズは、藤田紘一郎の『空飛ぶ寄生虫』によると、ヒトに適合する方向に向っており、将来には、毒性が消えるのではないかとさえ推測されている。インフルエンザとワクチンのいたちごっこが示している通り、ワクチンによる自己免疫性の向上は壁にぶつかっている。しかも、アレルギーという免疫機能の暴走さえ頻発しているくらいなのだ。そのため、自己免疫力向上だけでなく、分子生物学的な発想を克服する動きが見られる。寄生虫の排他性と独占性を利用し、常在菌がそうであるように、ヒトにとって毒性の弱い寄生虫を体内に住まわせて、より毒性の強い寄生虫から身を守るという方法が現実化しつつある。アフリカでは、これも重篤な感染症ではあるものの、フィラリアに感染した経験者はマラリアを発病しないことが明らかになっているし、風土病を一掃しようと発展途上国で治療を始めても、治療薬が途絶えたり、治療を中断してしまうと、重症患者が登場することがあり、住民と風土病との共生状態を解消させようとする試みは必ずしも得策ではないことさえある。
 藤田紘一郎は、『笑うカイチュウ』の「あとがき」で、寄生虫とヒトとの相互関係について、次のように主張している。
 寄生虫と宿主であるヒトとのこの特異な相互関係は、他の病原微生物が示さない独特の生物現象をヒトに呈示している。寄生虫とヒトとのあいだに成立したadaptation toleranceの状況、これは虫が宿主であるヒトの免疫を回避するための巧妙なしくみを有した結果である。この寄生虫の巧妙な免疫回避機構を解き明かすことは、現在の人類最大の敵、癌のヒト体内での増殖の機構を解き明かすことにつながる重要なテーマだ。
 また、多くの感染症のなかで、寄生虫感染だけが宿主にIgE抗体を誘導することが知られている。この場合、寄生虫に対して特異的なIgE抗体の産出のみならず、他の不特定多数の抗原に対するIgE抗体の発生を誘発することが知られている。このような寄生蝉虫感染時の宿主抗体産出調節機構の解明は、人類に残されたもう一つの大きな疾患、アレルギー病の治療につながる重要なテーマだと思う。
他にも、結核感染の経験者はアレルギーを起こさないというのは、医師の間では、かなり前から知られていた。パラサイトの肯定を医学は認めなければならなくなったというわけだ。医学だけではなく、あらゆる領域で、共生が求められている。共生は、共に棲むための個々の生物間の交渉を意味する以上、幅広い概念である。「ヒトとその体内に棲む寄生虫との関係は『共生』である」(藤田紘一郎『共生の意味論』)。抗生物質の効かない耐性菌による院内感染が問題になっているが、これも共生が問題解決の鍵になっている。抗生物質が効かないという特徴のために、耐性菌はしたたかで強いイメージがあるけれども、その毒性自体は決して強くない。黄色ブドウ球菌は、本来、ヒトの皮膚や鼻の粘膜で繁殖して病原菌の侵入を防ぐ常在菌の一つであり、ヒトとの共生関係を長年に渡って築き上げてきた細菌である。抗生物質の乱用が原因で、この共生関係が崩れ、菌が生き残るために、抗生物質に対する耐性を身につけてしまったのだ。東邦大学の山口恵三教授(微生物学)は、藤田紘一郎の『清潔はビョーキだ』によると、「菌の立場で見ると、耐性菌になるのは、決して望ましい変化ではない。耐性菌は、菌が生きるために必要なエネルギーを犠牲にし、薬に耐える特別な力を獲得している。結果的に、普通の環境で生きる力は弱くなっている場合が多い」と言っている。耐性菌は、抗生物質が乱用された環境で生き延びるために、むしろ、「普通の環境」では生きられないというわけだ。それは、戦争状態で生き残る術を身につけてしまった結果、平和な環境では生きられなくなったというかつてのベトナム帰還兵を思い起こさせる。耐性菌をより強い薬によって克服するのではなく、耐性菌と共生していく関係を取り戻すようにする必要があるだろう。「見た目に『気持ち悪い』生きものとして、忌み嫌われてきた寄生虫でさえも、花粉症やアトピー性皮膚炎を抑えていた『共生虫』だったのだ」(『共生の意味論』)とすれば、共生は、パラサイト、すなわち寄生を肯定することだ。従って、パラサイトを肯定した文化論が唱えられなければならないのである。
花粉症と言うと、われわれは、一九八二年にリリースされた沢田亜矢子の『花粉症』を思い起こす。ところが、春先になっても、どのメディアもこの曲をかけない。これが不思議でならない。率直に言って、日本のメディアはニュースを扱う際、駄洒落程度であり、「オヤジ」という言葉が似合いすぎるほどセンスが悪く、金を受けとって表現する資格がない。
 このように、近代医学そのものが批評的・哲学的認識を変えたのである。医学がこれほどまでに認識に変容をもたらしたのは、明確な権力に対してははっきりとした理由によって抵抗することができるが、医学に関しては専門的知識がなければ、医者の診断に対して抵抗ができないという支配力を持っているからなのだ。医者と患者は相互主観的な関係にはない。この強制力があるからこそ、医学的比喩は、文化論においては、有効的なのである。結核と違い、医学的な認識を根本的に覆すことのなかった梅毒が、言説的に、結核以上の感染力をもたらさなかったのは、それに関する医学的知識の感染力の差が出たからである。比喩としての医学と医学そのものはわけることができない以上、こうした病の文化論はその両者にかかわる。それは理論的限界と強制力の二つの側面を持っており、病の比喩に限定されるわけではない。論者の態度そのものがそうしたに誘惑のとりこになってしまうのであって、それを変える必要がある。従って、われわれは自らを医者に見立てる文化論的思惟は放棄しなければならない。
 医者は風邪をひきにくいけれども、それは、医師がしばしば軽くかかっているため、免疫ができているからであるが、そういう立場にある医者として文化を論ずることはもはややめなければならぬとしても、病からただ忌避していることは、むしろ、病にとらわれているにすぎない。健康を知るには病気を知らなければならないのだ。しかし、それは、その病気がいかなる意味を認識にもたらすのか、という点においてである。異常について考えることと異常に考えることは違うし、われわれが異常と考えるのは後者のほうなのだ。多くの健康フェティシズムとも呼ぶべき健康志向は、健康ではなく、むしろ、一種病的な印象を与える。実際、ジョギングの提唱者はジョギング中に亡くなっている。それはその方法が病的だからなのだ。三島由紀夫の文化論が病的であるのは、どんなに「病気と薬品」を否定して「肉体的能力」を唱えていても、彼のロマン主義文学への批判がロマン主義の圏内から一歩もでていないように、その思考方法が病的だからである。それゆえ、今日のエイズに関する差別的な言説は、それがエイズ的に機能しているように、病気を病的に考えている表われなのだ。
 差別者には、むしろ、病的という言葉以上に、別の言葉が相応しいように思われるが、犯罪の増加、あるいは犯罪の凶暴化や猟奇化を社会の病理の徴候として、表わされることがしばしばあるけれども、坂口安吾は、『精神病覚え書』おいて、「精神病的」と「犯罪的」と区別して次のように述べている。
 そして、僕は思った。僕の応接間でもそうであるが、精神病院の外来室に於ても、患者たちが悩んでいる真実のものは、潜在意識によってではなく、むしろ、激しい祈念と反対の現実のチグハグにある、と見るのが正しいのだ、ということを。
 彼らは、自分の悩んでいるものを知っているのである。ただ人に言わないだけだ。そして、人に縋ったところで、どうにもならないということを悟り、そういうところから、厭人的になり、やがて、精神が消耗してしまう。僕の応接間と、精神病院の外来室との違うところは、外来室に於ては、彼らは自らの意志ではなく、他の人々にすすめられて来ており、従って、医者に対しては外部的なことだけしか語らないが、僕の応接間では、彼らは自らの意志によって来ており、主として内部的なことを語ろうとしている努力していることの相違である。
 だから彼らは徳義上の内省については普通人よりも考えあぐね、発作の時期でなければ、むしろ行い正しく、慎んでいるのが普通であり、精神病院の看護婦などが、患者に親切で、その仕事に愛着をもつようになるのも、患者らの本性の正直さや慎ましさが自然にそうさせるのではないかと思った。
 一般に、犯罪者と精神鑑定とは離るべからざるように見られているが、テンカンの場合とか、異常発作の場合とかはとにかくとして、たとえば小平の場合などは、これを精神異常と云うのは奇妙であり、明らかに、「犯罪者」という別の定義があるべきではないかと思った。一般に、精神病の患者は、自らに科するに酷であり、むしろ過度に抑圧的であって、小平のような平凡さ、動物的な当然さはないものである。精神病患者が最も多く闘っているものは、むしろ自らの動物姓に対してであり、僕が小平を精神異常ではなく、むしろ平凡であり、単に犯罪者であると定義する所以はここにあるのである。精神病院の患者は自らに科するに酷であり、むしろ一般人よりも犯罪に縁が遠い、と僕は思った。
 精神病というものは、家庭とか、就職先とか、それらのマサツがなければ生じないもので、又、自らに課する戒律がなければ生じないものである。だから、責任ある地位につき、自らの科するに厳なる社会人は概ね精神病者と断定してよろしく、小平のようなのが、むしろ普通人の形態に近似しているのである。
 精神病者は自らの動物と闘い破れた敗残者であるかも知れないが、一般人は、自らの動物と闘い争うことを忘れ、恬として内省なく、動物の上に安住している人々である。
 小林秀雄も言っていたが、ゴッホの方がよほど健全であり、精神病院の外の世界が、よほど奇怪なのではないか、と。これはゴッホ自身の説であるそうだ。僕も亦、そう思う。精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。
 人間はいかにより良く、より正しく生きなければならないものであるが、そういう最も激しい祈念は、精神病院の中にあるようである。もしくは、より良く、より正しく生きようとする人々は精神病的であり、そうでない人々は、精神病的ではないが、犯罪者的なのである。
 安吾は、「テンカン」に関する認識の点などで時代的制約はあるものの、「精神病的」と「犯罪者的」を区別している。「精神病的」と「犯罪者的」の区別は、言うまでもなく、実際の精神病者と犯罪者に対応しているわけではない。両者は比喩的に用いられているのである。安吾は、『帝銀事件余談』において、「帝銀事件の犯人が早くつかまるということよりも、人権を尊重するということの方が、どれだけ大切なことか分らない」と述べている。日本人は、「出版の自由」と同様、最も「人権」を理解していない残虐な国民である。これらが宗教改革というあの血なまぐさい歴史の中から、すなわち一切の殺人・略奪・暴行が正当化された時代の中から、生まれたということを少し勉強したほうがいい。「犯罪者的」がサディスティックであるのに対して、「精神病的」とはマゾヒスティックである。この「精神病的」と「犯罪者的」という二項対立は「より良く、より正しく生きようとする」祈念、すなわち文化の次元をめぐってとらえられている。「精神病的」と「犯罪者的」は決して一体化することのない。精神病は人の内的原因が引き起こすのではないのだ。安吾は、言うまでもなく、「責任ある地位につき、自らの科するに厳なる社会人は概ね精神病者と断定して」言いだろうと述べているように、精神病を特権化も、神話化もしていない。精神病者は、決して、「犯罪者的」ではないどころか、「一般人よりも犯罪に縁が遠い」のである。精神病者は「いかにより良く、より正しく生きなければならない」かを考え、自らと闘い続け、疲れきってしまった人間である。従って、精神病者は反文化的ではないのだ。病の比喩によって、犯罪を語ることなどはまったく見当違いなのである。
 安吾はこうした主張を医者の立場としてでも、裁判官の立場としてでもなく、発している。安吾は超越的な視点から鳥瞰して言っているわけではない。安吾はアドルム−−睡眠薬の一種−−中毒と躁鬱病で一九四九年二月二三日から四月十九日まで東大病院の神経科に入院している。安吾は仕事を効率よくするために、集中力を高めることを目的として薬物を常用するようになった。ただし寺山修司は、作品を読むかぎり、安吾は真の意味でエディプス・コンプレックスにとらわれ続けており、躁鬱病と薬物中毒になったのは結婚が原因だったのではないかと推測している。その病室は東京裁判でA級戦犯として裁かれていた最中に発狂した大川周明が発病直後に送られた部屋だった。この『精神病覚え書』は退院直後の六月に、その体験の回想として、書かれたものである。彼の主治医だった千谷七郎医師は安吾を欝病と診断し、その原因をスランプ状態が引き起こした生命的不安によるものだと報告している。確かに、薬物を使用することになった直接的なきっかけは『吹雪物語』と題する原稿用紙三千枚もの大長編を書きあげようとしたことによる強迫観念と疲労であった。『吹雪物語』は未完のまま、結局、放棄された。睡眠薬中毒は、退院直後から仕事を再開してしまったため、薬物にたよらざるをえず、七月に再発しているのである。実際、安吾はかなりの量の作品を発表していた。八月下旬ころに伊東に転地療養に出かけ、九月下旬には一応治り、十月に、この一連の体験をふり返って『わが精神の周囲』と『小さな山羊の記録』を書いている。
 精神病や薬物中毒の経験者の書くものは、扱う主題だけでなく、その文体や思考方法によって、容易に類型化されるが、安吾のそれは類型化することができない。これは極めて珍しいケースである。そこにはただどこまでも知的で明確な自己省察だけがある。「僕はその時、思った、精神病の原因の一つは、排除された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、と」。これがほんとうについ先日まで狂気に襲われ、そしてまた再度襲われることになる人間の書いたものとは、にわかには、思えない。人間は二つの視点を持って生きているわけだが、一つは自分を内側から見る視点であり、もう一つは自分を外側から見るそれである。どちらかが弱くなると笑いや明るさが消え、病的になっていく。安吾は、明らかに、この二つの視点を兼ねそなえて、これを書いている。医師による診断や解釈に対して、彼は不安にならなければ、安心もしておらず、安吾は自分の病気を自己診断しているのである。「私は今に至って、さとったが、精神の衰弱は自らの精神によって治す以外に奥の手はないものである。専門医にまかせたところで、所詮は再発する以外に仕方がない。内臓の疾患などは、その知識のない患者にとって如何とも施す術かないけれども、精神の最上の医者は、自分以外にはいない。私が今、切にもとめているのは肉体上の健康で、ハッキリ、ただ私だけのものであることを悟に至った」から、それゆえ、「私は私の精神を、医師や薬品にゆだねたことが失敗であった。意志にゆだぬべきであった」(『わが精神の周辺』)。安吾の病気に対する治療法は、基本的には、古代ギリシア的医学のものと同じである。精神病理学者・心理学者の分類は、本来、便宜的なものであって、実体的なものではない。分類そのものにとらわれる必要など患者にはさほどなく、本来、患者自身が治療することが、フロイト自身が長年悩まされた神経症を治療するために夢分析を考案したように、望ましいのだ。精神の病は他者が必要で、自分一人だけでは治せない。他の精神病患者が彼と同じであるか、またはすべての薬物中毒患者が彼のような精神構造をしているかは別として、安吾の指摘が精神病を解く鍵となることは確かである。
 この指摘は後にルードウィヒ・ビンスワンガーが『うつ病と躁病』において主張したことを先どっているだけでなく、はるかに超えている。と言うのも、安吾は医者としてではなく、患者として、自己治療すべく、自らの経験を突き放し、えぐっているかららである。安吾は患者でもあると同時に医者でもあり、そして、患者でないと同時に医者でもないのだ。「自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰らない。批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ」(小林秀雄『読者』)。ブランケンブルクは統合失調症を「生きられた現象学的還元」と命名したが、精神病者には哲学的パラドックスがそのまま生きられていることが少なくない。安吾の治療法はそのパラドックスを哲学的に克服するという方法−−「意志」による価値創造−−によって行われている。ビンスワンガーは治療者としての観点が稀薄であるとか存在論的分析が不十分であるとして批判されてきたが、人間的にできていたと賞賛される彼の指摘そのものは適格であり、その方法論をおしすすめたところで、病は治療しないだけでなく、むしろ、パラドックスの迷宮にさらに迷いこんでしまうだけだ。そして、教師は過剰に教えたがり、生徒を混乱させてしまうことが少なくなく、教えないという我慢と待つという姿勢が必要であるごとく、精神病を治療するものに必要とされるのも、患者の治癒力をのばすために、むしろ、積極的な治療をおこなわないという我慢であるように、程度にもよるが、思われる。何しろ、『刑事コロンボ』シリーズでは、心理学者や精神分析医、精神科医が犯人として登場してくるのだから。それゆえ、治さないほうがはるかにましだという考えは否定できないのである。
 このような自己省察を可能にしたものは安吾の生に対する肯定力であろう。安吾は、『小さな山羊の記録』において、自殺の発作を恐れてはいたが、自殺を考えたことはなかったし、生きることを諦めなかった、奇怪な行動は事態打開のための厄払いだったと回想している。安吾は自殺しようとしたのですねという医師の質問に対して次のように答えている。「私は、死にたいと思ったことは一度もありません。みんな生きるため、最後の危険をかけて自分をためして、きっとそこから仕事への立直りを見出すためです。死のうなんて、そんな、バカな」。安吾が病的であるとすれば、苦しい状態に対してそれ以上苦しい状態をぶつけて、克服しようとすることであろう。つまり、今よりもっと困難なことができれば、それよりも容易なことはできるという発想である。人間は調子の悪いときのほうが多いわけであり、苦しいときは、むしろ、自分の理想のレヴェルを落とし、苦しいときなりのことをして、調子のよくなることを待つものだ。
 野村総一郎は、『きょうの健康』一九九七年八月号の中で、「うつ病というのは、“脳のかぜ”のようなものなんです。休養をとって、時間がたてば、自然に治ります。最近は、うつ病によく効く薬があるので、それをのめば、より早く治ります。それに、うつ病はとりたてて珍しい病気ではありません。だからあまり怖がる必要はないんです」と言っている。ただし「自殺」には気をつけなければならない。一番ひどいときは、自殺する気力すらないのであまり心配ないが、治りかけにすることがある。治療中の叱咤激励や旅行も、悪循環に陥った患者を追いつめることになるので、厳禁だ。「うつ病は、“よい人”ほどかかりやすい病気です。几帳面で、人に合わせることを考え、何でも一緒運命にやる頑張り屋さんです。だから、社会的に成功する人に多い。悲観することはありません。この病気ときちんと向き合い、これまでとは違った考え方をできるようになれば、一回り大きな人間になることだって可能です」。
 安吾は自分の置かれている状況に応じて、工夫して、ベストをつくすことを、大学時代には、行っていた。安吾は、東洋大学時代に、一日四時間しか眠らない生活を一年間続けたため睡眠不足が原因で神経衰弱に陥っている。このときは、いろいろな妄想が起こって悩まされたので、何も考えず辞書を引き、外国語を勉強することによって治療しているのである。それができたのは、実は、彼が肉体的に頑強であったからなのだ。安吾は、中学時代、野球、水泳、陸上競技に熱中し、野球ではエース・ピッチャーを、ハイ・ジャンプでは、当時の新記録をマークして、インター・ミドルで優勝している。しかし、年齢とともにその肉体も衰えてくることを安吾は考慮していなかった。安吾の方法も必ずしも間違ってはいないが、それが耐えられるだけの肉体を持っていなければならないのであって、不摂生によって弱りきった肉体でそれ以上のことをしようとしても状況を悪化させるだけである。安吾がこよなく愛し、小林秀雄にもエッセーの中でとりあげられ、西鉄ライオンズなどで活躍した元プロ野球プレーヤーの豊田泰光によると、スランプは集中力や好調時の感触を維持しようという意識の過剰によって、体のある部分だけに力が入りすぎ、全体のバランスを崩したときに起こる、と言っている。集中力を気にし始めたときは、もうすでにスランプの初期の段階なのである。集中力に関心を持つものほど、調子にのると手がつけられないくらい力を発揮する反面、スランプになりやすく、一度スランプになると長い。だから、安吾は、むしろ、スランプではなく、職業作家としての強迫観念に怯えていたのである。彼自身もそれを認めている。「しかし、精神の健康とは、何を指すのであろうか。たとえば、『仕事がすべて』という考え方が、すでに、あるいは不健康であるかも知れない。その場合には、私は、すでに言うべき言葉はない。ただ知りつつ愚を行い、仕事を遂げるだけのことである。すくなくとも、芸術の方法は、それ以外にはないようである」(『わが精神の周辺』)。とは言うものの、職業作家に必要とされるのは、大学時代に行っていたことなのだ。仕事が病気をつくりだしてしまうとすれば、病気を治療することは大切だが、それが十分にまだできない場合には、病気といかに共存していくかを考えるほうが健康的であろう。精神病が完全には治らず、再発する可能性が高いとすれぱ、患者にその精神病といかに共存していったらいいのかを考えさせるほうがはるかに健康的なのだ。それは、ある限界の中で生きざるをえないとすれば、その中で自分の生が最大限充実できる方法を意識化することである。自分だけでは精神の病はドツボにはまり、治せない。安吾は自分の限界をつねに意識して、そこで生を充実させることを狂気の中でさえ忘れなかった。安吾の省察はこの生への徹底した意志、何がなんでも生きるという生命力が可能にしたのだ。それゆえ、死の教育が忘れられていると言われているが、実は、忘れられ、隠されているのは死ではなく、生なのである。この世に命をかけてやることなど一つしかない。それは生きることだ。Take it easy!
 以上のように、安吾は病人であり、病気について書いているのだが、書かれたものは健康さを印象づける。安吾は病を排除し忌避する健康フェチではまったくない。安吾は病を病的にではなく、健康的に考えている。それは医者として自らを診断するというのではなく、自分自身の限界を意識し、そこでいかに生を充実させるかという生への意志がもたらしたものであった。だが、それは自らの病気に関する省察だけではない。安吾のこの認識は文化論においても生きているのである。
 その安吾は、三島に対して、桂離宮を賞賛したことで知られるブルーノ・タウトの『日本文化私観』に対する反論として、戦時中の一九四三年に書かれた『日本文化私観』において、日本文化を次のように言っている。
 日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものも健康だ。彎曲した短い足にスボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりがないのである。彼らが我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根底的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづくかぎりは、彼らの憫笑がはなはだ浅薄でしかないのである。彎曲した短い足にスボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々がそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧なはずはないではないか。
 安吾が「健康」という言葉を使っているのに対して、三島は病に関して語っているように、安吾の主張は三島のそれとまったく異なっている。三島の文化論は自分自身を医者に文化を患者に見立てているわけだが、自分自身を文化と直接的に関係していないかのように論じているのである。一方、安吾は、精神病に関する言説と同様、文化を自らと直接関係するものとして見なしている。安吾にとって、文化は防衛すべきものではない。守らなければならない文化は、「生活しつつある立場」から遊離しているのであり、それは真の文化などではないのだ。三島は、文化を考える際に、「欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間」をつながりのあるものとして考えているにすぎないのである。「彎曲した短い足にスボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々がそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていた」とは三島には認めることができない。三島にとって大切なのは、「生活しつつある立場」にねざすことではなく、「はなはだ浅薄でしかない」欧米人の「憫笑」を誘わないことなのである。三島には「笑う方が必ずしも利巧なはずはないではないか」とは胸をはって言えない。つまり、「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものも健康だ」という認識を、三島のように、日本の文化が健康になれば、日本人の生活が健康になるとする倒錯こそが不健康なのである。
 安吾と三島の差異は、先の「精神病的」と「犯罪者的」の差異によって、さらに明確に、示されるのである。三島は犯罪者の心理に非常に関心を持っていることをことあるごとに告げている。一方、安吾は、『不連続殺人事件』などのミステリー小説で犯罪トリックを扱ったことはあるものの、犯罪者の心理など描くことは一度もなかったが、精神病に関しては、自らの体験を含めて、何度か作品でとり扱っているのだ。特に、金閣寺焼失をめぐって両者の反応はまったく異なっている。三島はその事件に対して『金閣寺』を書き、そこでこの犯人自身の言葉をそのまま受けとり、詳細に、フィクショナルな要素を絡めながら、彼の心理を構築しているのである。ところが、安吾は、この事件に対して、『国宝焼亡結構論』を書いているのだが、犯人はまわりの人間から愛されずにいたことに反抗するため、たまたま金閣寺に住んでいたから金閣寺を焼いてしまったにすぎず、金閣寺の特性が彼に放火させたのではないのであって、犯人の言葉を「生き物」として扱うことに異議を唱えている。なぜならば、「こういう時には、まず、疑ってかかるものだ。それは、人を疑るからではなくて、こういう場合に想定せられる自分自身を疑らざるを得ないからだ」ということを忘れてはならないからである。その上で、安吾は、三島がそこでとどまるのに対して、金閣寺の焼失事件から文化について論を展開させている。安吾から見れば、『金閣寺』を発表してしまうような三島の『文化防衛論』は「精神病的」ではなく、「犯罪者的」なのだ。
 さらに、安吾は、『日本文化私観』において、健康と文化、そして生活について次のように結論づけている。
 見たところのスマートだけでは、真に美なるものとはなり得ない。すべては実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、ほんとうの物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、あってもなくても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが、累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために腫れた日も曇り月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、何であろうか。見たまえ、空には飛行機がとび海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駆けて行く。我々の生活が健康であるかぎり、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活するかぎり、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。
 ここで安吾が言う「必要」は政治的・経済的なものに基盤を置いているわけではない。政治・経済の勝利は文化の勝利ではないのであり、政治・経済は文化と必ずしも相応しないのである。政治・経済も生活の「必要」に応えられたなら、それは初めて文化的になるのだ。一般に、文化国家という言葉が使われているが、当然、これは矛盾している。真の文化は国家と国家の間に生まれるのだから。確かに、文化はその歴史や風土などが反映しているだろうし、健康も同様であろう。だが、それはあくまでもそういう状況で生きるための必要性によって形成されてきたのである。文化という静止的に固定された何ものかにすべてが奉仕しているわけではない。そういう文化が文化と認められている傾向が一部でまかり通っているようだが、そういう事態に対してはわれわれは「文化への不満」(フロイト)を叫ばずにはいられないのである。文化は自己認識とそれを克服しようとする意志との関係に存在する倫理的なものなのだ。「必要」こそが文化であり、健康を創造するものにほかならない。真に「必要」なものを求めた結果がいかに「猿真似」であったとしても、それは、「そこに真実の生活がある」から健康的であり、文化的なのだ。逆に、「猿真似を羞る」がゆえに、生活において不必要なものに固執することはまったく文化的などではなく、不健康なのである。
 安吾自身は三島について次のように述べている。
 大岡昇平と三島由紀夫は戦後に文章の新風をもたらしましたが、その表現が適切に、マギレのないようにと心がけて、まさしく今までの日本の文章に不足なものを補っております。明快ということは大切です。
 ですが、小説というものは、批評でも同じことだが、文章というものが、消えてなくなるような性質や仕組みが必要ではないかね。よく行き届いていて敬服すべき文章であるが、どこまで読んでも文章がつきまとってくる感じで、小説よりも文章が濃すぎるオモムキがありますよ。物語が浮き上がって、文章は底へ沈んで失われる必要があるでしょう。
 御両所に共通していることは、心理描写が行き届いていて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、その事柄として明快に心理をつかみとって描いてみせているけれども、その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという崎型が生じております。
 それも要するに、文章が濃すぎるということだ。文章というものは行き届くはずはないものです。行き届くということは、不要なものを捨てることですよ。すると他に行き届かないという崎型は現れません。
 そして、捨てる、ということは、どういうことかと云うと、文章は局部的なものはないということです。むろん、文章は局部的なものしか書けないし、その限りに於て文章は局部的に明快で、また行き届く必要がありますけれども、文章の運動というものはいつも山のテッペンをめざし、小説の全体的なものが本質として目ざされておらなければならない。言葉の職人にとって、一ツ一ツの言葉というものは、風の中の羽のように軽くなければなりませんな。(略)
 文章の新風としては、今度の芥川賞に候補にのぼった安岡章太郎という人のが甚だ新鮮なものでありました。私は芥川賞に推して、通りませんでしたが、この人は御両所につづく戦後の新風ですね。この人の文章は、山際さんや左文さんのような戦後風景に即しておって、文章としてはたくまずして(実はたくんでいるのでしょうが)おもしろい。作中の人間と、文章がピッタリして、本当に生き物のような文章なのです。そして風の中の羽のように軽い。
 けれども、この妖しい生き物のような文章は、文章の限りにおいて面白いが、恐らく文章が全然内容を限定してしまう性質のものです。まア、人間は銘々が自分だけの物を作ればタクサンなのだから、自分は自分の領分でタクサンだ、と云えば、それもそうですが、いくら妖しい生き物のような文章でも、内容があんまり限定されるということは、結局作品を骨董的なものに仕立ててしまって、いつまでたっても、それだけのものだ。
 だから、文章としては風の中の羽のように軽くて、作中人物は生き生きと浮き上り、結局文章は姿を没するような爽快なオモムキがありますけれども、大岡三島御両所のように後世おそるべしというところがない。文章が濃すぎるということは今だけの問題にすぎない意味があるが、文章が妖しく生きすぎていてノッピキならぬオモムキがあるのは、文章と人間や物語とがピッタリはまりきって、他を入れる余地がないことを意味するように思われる。
 内容を限定する危険のある文章はなるべく避けなければいけますまい。どんな人間同志の複雑な関係や物語にも間に合う幅が必要ですよ。
 大岡三島御両所の文章は批評家にわからぬような文章や小説ではないね。甚だしく多くの人に理解される可能性を含んでいますよ。
(『戦後文章論』)
 元々精進料理というものは、野菜の味を発揮するよりも、肉に似た味をデッチあげるために苦労しがちなもので、日本文学もこの例にもれない。そして、本来菜食文学でありながら、コッテリした味を見せかけるために、祖師伝統の技術があったようである。
 明治大正の頃には作中の芸者や奥様や令嬢によってそれぞれ着る物にウンチクを傾けてコッテリした味をつけたり、主人公の所持品に凝りに凝って一説を立ててみたりして読者をウットリさせたもののようである。
 戦後文学に至ってもこの伝統はあるようだ。三島由紀夫さんのように鳥のロチもできそうな料理人でも、四句節の精進料理となると、料理よりもデコレーションの方が一まわり大きくなってしまう。カンジンの料理の方がチョボチョボのチョッピリで、おまけに野菜製というのは、これも四句節ならば万やむを得ん次第なるべし。
 野菜料理も野菜を生かす方はまだよいが、肉に似せる精進料理は所詮肉に及ばない。それを肉以上の何かであるような神秘的味覚を自負するところに日本文学の特徴の一ツがあるように考えられる。
(『菜食文学』)
 安吾は、三島が「局部的」にとらわれすぎているため、文章が「濃く」、料理以上に、「デコレーション」を大きく仕上げようとする傾向にあると指摘している。心理描写とは選択・排除の原理に基づいているのであって、それによって限定された領域を「濃く」せずにはいられない。安吾と三島は世代的にほとんど出会うことはなかったが、安吾の三島に関する見解は、結局、彼に終生つきまとったものだった。安吾は、安岡章太郎よりも、三島に大岡昇平と同じくらいの可能性を認めている。今から考えれば、安吾の見る目は確かだったことは間違いない。安吾は、彼の文章の「濃さ」は、なるほど、問題ではあるが、一皮むければ大いなる文学的才能を発揮する、と期待しているのである。けれども、三島はそれに応えることはなかった。拒んだのだ。三島は「野菜料理も野菜を生かす方はまだよいが、肉に似せる精進料理は所詮肉に及ばない」ということに、アイロニカルに、反逆してみせただけだったのである。安吾はボディ・ビルをしたり、「楯の会」を結成した三島を知らなかったわけだから、後の彼の行動をどう思うかはわからないが、金閣寺を焼いた犯人に対して言ったことと同じことを彼に述べただろう。
 従って、われわれに「必要」とされているのは、三島のように、病気や健康を論ずることではなく、むしろ、健康に論ずることである。文化によって健康を論ずるのでも、健康な文化を論ずるのではなく、安吾のように、健康に文化を論ずることこそが「必要」なのである。半病人で、薬の力をかりなければ、睡眠どころか休息もとれず、十一年もの間、進行性麻痺のため狂気の闇をさまよったあげく、亡くなったニーチェは西欧の精神史を病気の歴史だと断罪したが、病気を比喩として濫用したにもかかわらず、彼は「健康という幻想」からほど遠かった。と言うのも、彼は健康的や病的がいかなるものであるかを主張するのではなく、健康的にそれを考察することを試みていたからである。HIV感染者が、感染する前よりもその後のほうが、愛や生についてわかったと告白することが少なくないが、それは健康に思考することを身につけたからである。ニーチェはそれを「病者の光学」と呼んだ。それは、病者は病理学的には病気にかかっていると定義されるかもしれないが、その認識方法そのものは健康だ、ということなのである。
 そのような健康的な思考方法は、何よりもまず、子供において、体現されている。と言うのも、自殺や病気を欲しない子供には死への意欲は存在せず、ただ生への意欲だけがあるからである。文化が老成を理想としているかぎり、それは健康とは無縁であろう。子供を早期に成長させようとすることには不健康だけが生じる。日本人は子供に対してよくこういう病的状態を引き起こしているのだ。文化と健康が手を携えることができるのは、この生への意欲を文化が規範としたときである。生への意欲を理想としていた古代ギリシアが今日においても思考の規範となっているのは、健康と文化が一体となっていたからなのだ。西欧人はさまざまな困難につきあたると、古代ギリシアを想起し、そこから新たな生への活力を汲みとる。西欧的な思惟や諸学が支配的になったのは、そこにのっぴきならない矛盾点があることは認められるものの、そういう健康と文化が一体となっていた黄金時代を持っているからである。
 そう考えると、アメリカ合衆国が、あれほどまでに犯罪や麻薬などさまざまな問題を抱えながら、依然として世界の中心である一つの理由は、若さが強調され、老成を決して理想としていないからだと言うことができる。アメリカではジョークやユーモアのセンスがないことは、日本と違って、致命的である。アメリカは、それがあるからこそ、どんなに苦境でも生き延びているのだ。若さとは精神のたくましさのことであり、それが笑いと明るさをもたらす健康さなのである。健康的な態度とはそうした笑いや明るさだと理解してよい。
 言うまでもなく、年をとることは忌み嫌われることではない。しかし、それを理想化するとしたら、いきすぎであろう。年をとることは素敵なことでもある。ただし、それは、よく年をとること、すなわち年老いていくことをあるがままに認め、その状況に応じて、自らの可能性を尽くすことにおいてである。
 だから、今世紀最高のファッションは、そのアメリカから生まれたジーンズである。いかなるデザイナーもそれにはかなわなかった。今日行われているファッション・ショーは新たな流行の展示会などではなく、過去の亡霊の葬式にほかならない。アンディ・ウォーホルはリーヴァイスのような作品をつくりたいと率直に認めている。ジーンズを超えるものだけが新たなファッションなのだ。ジェームズ・ディーンが世界に知らしめたリーヴァイスがこれほどまでに普及したのは、それがわれわれの生活にねざしているからである。ゴールド・ラッシュの過酷な労働にたえられるようにつくられた丈夫なジーンズは、ガラガラ蛇よけにインディゴ染めを採用したのも含めて、「必要」にせまられて生まれた健康的なものなのだ。ジーンズはアメリカ合衆国が誇れる最高の文化である。アメリカ人は、ジーンズやキャンベル・スープ缶だけでなく、スポーツを文化の次元に所属しているのであり、彼らほどスポーツの見方をわかっている市民はいない。ジーンズを文化と認めることができず、それを笑うものは、アメリカ人が「もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧なはずはないではないか」のであって、文化を骨董品と混同していると言ってさしつかえないだろう。
 文化は自己認識とそれに対する自己超克であるから、文化は健康を憧憬している。けれども、健康を文化としてとらえることによって、初めて、真の健康づくりができるわけではないのだ。健康づくりは健康法のことだけを意味しているわけではない。言うまでもなく、健康法は必要である。肉体的衰弱は、身体的病気だけでなく、安吾の場合のように、精神的病気にも陥ってしまう危険性が高い。そのため、安吾もゴルフをプロについて習い始めている。しかし、健康法が健康づくりの目的ではない。真の健康づくりはいかにして充実して生きるかに基づいている。いかなる不幸な時代や場所、境遇のもとに生まれてきた生であったとしても、充実されなければならない生とする必要がある。多くの身体的・精神的病に対してまだ無力であるとしたら、その限界を是認して、そこでいかに充実して生きられるようにするかを考察するほうが文化的である。健康でなければならないという発想は健康的ではない。健康的に生きる必要があるということこそ健康的なのである。換言するならば、健康づくりをしなければならないという発想は健康的ではないが、生きる際に、健康づくりは必要であるということは健康的なのだ。
 三島のようにボディ・ビルをして、ただ胸囲を増やし、ヌード写真集を発表することは健康的ではないのである。三島のボディ・ビルは真の健康づくりではない。彼のボディ・ビルによってつくられた体は、虚栄心を満足させ、他の文学者たちを軽蔑する道具にはなったものの、まったく生活にいかされていないのである。三島のボディ・ビルは、彼が嫌悪してやまなかった太宰治の不摂生と、表裏一体の関係にある。健康づくりは認識、それも倫理的認識の問題である。健康を病人に誇示することは、病人が病気を健康な人へ自慢することと同様に、健康的ではない。そして、健康な人同志が健康を競争することは、病人同志が病気を競いあうのと同様に、健康的ではないのである。健康は倫理的認識の問題であり、エイズをめくる差別的言説は健康を倫理的認識としてとらえていない。人間は病気のために生きるものでもないが、健康のために生きるのでもない。つまり、われわれは文化のために生きるわけではなく、生きるために文化を「必要」としているように、生きるために健康づくりを「必要」とするのであって、健康づくりのために生きるわけではないのだ。とすれば、健康づくりはつねに健康的な倫理的認識をつくることを含む「必要」がある。
 だから、われわれが健康的に生きようとすれば、文化も健康的になるのである。文化は人間の限界に立脚している。文化的に生きることは自分の可能性と限界を発見して、自らを高めて生きるということである。それは、宮沢賢治が病床で「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ」と書いているように、何事にも「マケズ」、「丈夫」に生きることなのだ。三島の文化論が健康的ではないのは、何事にも勝とうとしたためである。健康が文化であるかどうかは別として、健康的に生きることは、文化的に生きることであろう。と言うのも、自分自身として生きようとすれば、すなわち現実の生活の「必要」の中でひきしぼって生きようとすれば、おのずと健康的に生きざるを得ないのだから。従って、健康を文化として把えた上での真の健康づくりとは、生活の「必要」の中でひきしぼって生きることを意欲する倫理的認識の健康をつくることにほかならない。